・誰も何も助けてくれる人がいませんでした。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い と、いう 諺があるように。

父は元々大の子供嫌いでした。

ましては、女の子で実の娘となると、どの様に接していいのかわからない。

とも、当時周囲の人と話しておりました。

そして父は相手の眼を見て会話をすることが嫌いな人でした。

苦手と云っても過言ではありません。

相手の眼を見て話しする時は喧嘩をする時だけだ。といつも告げていました。

なので、父の顔色を伺う性格の私にとってはとても怖い形相でした。

私はよく幼少期の頃は真冬でも薄着か素っ裸でした。

足元は片方は裸足か靴下を片方履いているか履いていないか。

靴を履いていればラッキーでした。身体には暴行された跡がありました。

残念ながら田舎には無視をする人、面白そうだからと、

同じように暴行を振るってくる人が

大多数でした。悲しい程の現実でした。

ウチには約人生で5回程しか誕生日やクリスマスがありませんでした。

幼少期から友達の家にご飯を食べに行く他、

友達と遊びにいくことは基本許してもらえませんでした。

何故なら、親御さんへ頭を下げることは

とても苦手な父でした。

そのためか、

お尻叩き20分程から40分

その後外に放り出されます。

3時間から5時間程でしょうか。

その後大体は父に見つかります。

そして、家に戻されます。

そこでひたすら今度は殴る、蹴るの暴行がはじまります。

時には、木刀で痛めつけられたりもしました。

酷い日にはさらに溜めてあったお風呂のぬるま湯に

父に頭をがっちり固定された状態でお風呂に

頭を窒息する寸前まで

何度も沈められ繰り返されます。

そんな頃

私は父に幼少期の頃伝えていたことがあります。

私は父からどうしても『生まれてきてくれてありがとう』の証がほしかったのです。

少しでもその気持ちがあるのならその証が欲しいと父にねだり続けました。

それが、耳にピアスを空けてほしいと。私からの唯一の頼みでした。

それは、5歳を迎える誕生日の1週間前程の出来事です。

私は両耳にピアスを空けてもらいました。

父は自分に黙ってコソコソすることと

嘘を酷く嫌いました。

そして父は私が18歳になるまでは面倒をみたる!

それまでに生きるスベを自分で身に付けろ!

と、

よく言い聞かされました。